いつかの雲 (短編) 1

                                        美野沐「みのう」

           

                       満員電車

 

   朝の通勤電車は嫌になるほど混む。まだ厚手のコートを着て居る人も居たり学生何かは大きなバックを持って乗り込んでくる。車両に入り切らない程の乗客を駅員が無理くり押し込んで、漸く電車は高円寺の駅を出た。
そんなに背丈は高くは無い由美子は押し込まれて車両の真ん中辺りの真ん中に居て人と人の間で身動き出来ない外の景色も余り見えない、そんな状態であった。
なのに東京駅まで乗らなくてはならない。
それにさっきからちょうどお尻の辺りに何かリズムを刻むようにして固い物が当たって来る。あ、又だ!
、これは、痴漢かー!どうしょう、振り向いて確かめる訳にもいかない。気持ちが焦って来てどうしょうも無くなった。
乗ってないかなお巡りさん‥。
泣きそうになる所を我慢して由美子は思い切って言った。どなたかのカバンかな、私の身体に当たって痛いんですが?と、でも誰からも返事が無い。
泣きたくなった。
お巡りさん助けて…。
その時はっと気がついた。自分が警察官だった事に。
胸のポケットから警察官証を取り出し手を挙げてかざして其れを一周回し見せた。「す、すみません僕の鞄でした。」少し振り向いてその顔を見ると、商社マン風の若い男性である。
急いで位置を替えたようだ。
聞こえてたなら早く言ってよ。そう由美子は思ったが痴漢行為では無さそうで軽く頷いて承知するしかない。
その時その男性が声をかけて来た。
上野東署にお勤めですか?
由美子は答えなかった。
「僕、上野東署の捜査課に今日付で配属するんです。」
そう言われて驚いた。
「そ、そうなんですか!捜査課にですか?」
男性は無理やり由美子の隣に割り込んできた。
大学出たてのような初々しい顔をしている。
「前田さんの班です。あなたは?」
由美子は更に驚いた。同じ班だ!
だけど班長、昨日、何も言って無かったな。
「それなら私と同じ班です。」
「わ、奇遇ですね。宜しくお願いします先輩。僕、田澤勇吉と言います。」
「あ、こちらこそ、荒田由美子です。」
「が、ですが先輩、警察員証は帰宅時に署に保管では無かったですか?」痛いところを突かれ返す言葉も無かったが、昨夜返すのを忘れたなんてとても言えない、そう思った。
「叱られますね?始末書ものですかね。」
と、割と言い難いことをはっきりと言ってきた。だが、その通りで何も言い返せなくて居たら
「仕方ないですね。昨夜はあのガセトの立てこもりで直帰したんでしょ。」
、なぜ知ってる?嫌な予感がした。だが黙って居る事に決め込んだ。
上野駅に降り立つと彼の憎きあのカバンはパソコン用で有るらしかった。
黙って横を歩いて来る。長身な人で有る事に気付いた。
其の顔立ちは何処となく綾野剛に似ているな、とそんな風に思う。
捜査課の一日が始まる。事務係の正田さんの淹れてくれる朝のお茶は乾いた喉に美味しい。だが、その時朝礼が始まった。
お、彼が居るな。これから紹介されるのだろう。やっぱり似てるな。

しかしそう思うのは由美子だけかも知れない。
課長が話し出した。
皆、昨夜はお疲れさんでした。今日も宜しく頼む。
人事があったので紹介する。今日から捜査課の二係の係長に付いてくれる田澤警部補だ。田澤係長一言。
え、係長!嘘でしょあんなに若いのに!
由美子は驚きを隠せなかった。彼を凝視して声も出ない。
「今日、日野片口署からこちらに配属になりました田澤有吉です。これからどうぞ宜しくお願いします。
えー、僕は若く見えますがこれでも三十も半ばを過ぎております。」
其れを言って照れ笑いをしている。
「それから、昨夜は遅くまでお疲れ様でした。直帰された方の警察官証は今回に限り持ち帰った方の責任を問わないと先程課長と、相談しました。安心してください。」と、軽く頭を下げて就任の挨拶が終わった。
騙された、でも若いのに警部補なんて、係長なんて詐欺だわ。そう由美子は心の中でブツブツ言いながら、席へ戻り覚めたお茶を飲み干した。
前田班になんて嘘じゃない。三班有るもの。

澤田も席に付いた。こちらを向いてるのでどうしても顔が見えてしまう。昨日の報告書を書こう。そう決めて昨夜の顛末を描き始めては見たが雑念が湧いてくる。
澤田の事もだが、今朝の自分の気持ちである。
痴漢行為だと思った時、私はなんでお巡りさん助けて、なんて思ってしまったのだろう。昔からそうだった。
だが自分が警察員となってからは其れが遠のいていたのだが。
由美子は今二十六歳。巡査部長である。
三鷹市に住んでは居るが武蔵境駅の方が近い。警察官の父と、昔警察官だった母とそれからダルメシアンのような模様のでっぷりした細目の雄猫の、サークル、
サークルの由来は、子猫の時に自分の長い尻尾でじゃれつきクルクルと回って居た事から其の名前がついた。だが其の行為は、猫の精神状態の悪さで有るらしかったが、其れも一週間くらいで落ち着いて、今はそれも無くなり落ち着き過ぎるくらいなのである。其の三人と、一匹で暮らしている。
父康平は、小平西警察署の署長をしている。
由美子が警察官を目指したのはこの父の影響が強かった。
忙しくて家に滅多に居なかった父の、其の後ろ姿を見て育った。
だからお巡りさんが好きなのか、其れは彼女にも分からない。
それと何不自由しない家庭に育ち、母は物心着いた頃には警察を辞めていて、優しく一人娘の由美子を育ててくれたのに、其れでも言い知れぬ不安を感じる事が時々あって、そんな時お腹が痛くなり、どうしても病院に足を向けたくなる。

医師と話をするだけでも其の不安が遠のいていた。
それって、何処から来るのだろうな。
そんな雑念である。
もう少しで報告書が書き上がる、スマホをのぞいたら十時にもう少し。
報告書は書くの苦手でいつも時間がかかってしまうなぁ〜、事件を知らせるアナウンスが流れて来たのはそう思った其の時だった。

途端、由美子はバックを袈裟懸けにかけ、アナウンスを聞きながら捜査員室を飛び出していく、

それは誰よりもいつも早いのであった。