いつかの雲 (短編) 1

                                        美野沐「みのう」

           

                       満員電車

 

   朝の通勤電車は嫌になるほど混む。まだ厚手のコートを着て居る人も居たり学生何かは大きなバックを持って乗り込んでくる。車両に入り切らない程の乗客を駅員が無理くり押し込んで、漸く電車は高円寺の駅を出た。
そんなに背丈は高くは無い由美子は押し込まれて車両の真ん中辺りの真ん中に居て人と人の間で身動き出来ない外の景色も余り見えない、そんな状態であった。
なのに東京駅まで乗らなくてはならない。
それにさっきからちょうどお尻の辺りに何かリズムを刻むようにして固い物が当たって来る。あ、又だ!
、これは、痴漢かー!どうしょう、振り向いて確かめる訳にもいかない。気持ちが焦って来てどうしょうも無くなった。
乗ってないかなお巡りさん‥。
泣きそうになる所を我慢して由美子は思い切って言った。どなたかのカバンかな、私の身体に当たって痛いんですが?と、でも誰からも返事が無い。
泣きたくなった。
お巡りさん助けて…。
その時はっと気がついた。自分が警察官だった事に。
胸のポケットから警察官証を取り出し手を挙げてかざして其れを一周回し見せた。「す、すみません僕の鞄でした。」少し振り向いてその顔を見ると、商社マン風の若い男性である。
急いで位置を替えたようだ。
聞こえてたなら早く言ってよ。そう由美子は思ったが痴漢行為では無さそうで軽く頷いて承知するしかない。
その時その男性が声をかけて来た。
上野東署にお勤めですか?
由美子は答えなかった。
「僕、上野東署の捜査課に今日付で配属するんです。」
そう言われて驚いた。
「そ、そうなんですか!捜査課にですか?」
男性は無理やり由美子の隣に割り込んできた。
大学出たてのような初々しい顔をしている。
「前田さんの班です。あなたは?」
由美子は更に驚いた。同じ班だ!
だけど班長、昨日、何も言って無かったな。
「それなら私と同じ班です。」
「わ、奇遇ですね。宜しくお願いします先輩。僕、田澤勇吉と言います。」
「あ、こちらこそ、荒田由美子です。」
「が、ですが先輩、警察員証は帰宅時に署に保管では無かったですか?」痛いところを突かれ返す言葉も無かったが、昨夜返すのを忘れたなんてとても言えない、そう思った。
「叱られますね?始末書ものですかね。」
と、割と言い難いことをはっきりと言ってきた。だが、その通りで何も言い返せなくて居たら
「仕方ないですね。昨夜はあのガセトの立てこもりで直帰したんでしょ。」
、なぜ知ってる?嫌な予感がした。だが黙って居る事に決め込んだ。
上野駅に降り立つと彼の憎きあのカバンはパソコン用で有るらしかった。
黙って横を歩いて来る。長身な人で有る事に気付いた。
其の顔立ちは何処となく綾野剛に似ているな、とそんな風に思う。
捜査課の一日が始まる。事務係の正田さんの淹れてくれる朝のお茶は乾いた喉に美味しい。だが、その時朝礼が始まった。
お、彼が居るな。これから紹介されるのだろう。やっぱり似てるな。

しかしそう思うのは由美子だけかも知れない。
課長が話し出した。
皆、昨夜はお疲れさんでした。今日も宜しく頼む。
人事があったので紹介する。今日から捜査課の二係の係長に付いてくれる田澤警部補だ。田澤係長一言。
え、係長!嘘でしょあんなに若いのに!
由美子は驚きを隠せなかった。彼を凝視して声も出ない。
「今日、日野片口署からこちらに配属になりました田澤有吉です。これからどうぞ宜しくお願いします。
えー、僕は若く見えますがこれでも三十も半ばを過ぎております。」
其れを言って照れ笑いをしている。
「それから、昨夜は遅くまでお疲れ様でした。直帰された方の警察官証は今回に限り持ち帰った方の責任を問わないと先程課長と、相談しました。安心してください。」と、軽く頭を下げて就任の挨拶が終わった。
騙された、でも若いのに警部補なんて、係長なんて詐欺だわ。そう由美子は心の中でブツブツ言いながら、席へ戻り覚めたお茶を飲み干した。
前田班になんて嘘じゃない。三班有るもの。

澤田も席に付いた。こちらを向いてるのでどうしても顔が見えてしまう。昨日の報告書を書こう。そう決めて昨夜の顛末を描き始めては見たが雑念が湧いてくる。
澤田の事もだが、今朝の自分の気持ちである。
痴漢行為だと思った時、私はなんでお巡りさん助けて、なんて思ってしまったのだろう。昔からそうだった。
だが自分が警察員となってからは其れが遠のいていたのだが。
由美子は今二十六歳。巡査部長である。
三鷹市に住んでは居るが武蔵境駅の方が近い。警察官の父と、昔警察官だった母とそれからダルメシアンのような模様のでっぷりした細目の雄猫の、サークル、
サークルの由来は、子猫の時に自分の長い尻尾でじゃれつきクルクルと回って居た事から其の名前がついた。だが其の行為は、猫の精神状態の悪さで有るらしかったが、其れも一週間くらいで落ち着いて、今はそれも無くなり落ち着き過ぎるくらいなのである。其の三人と、一匹で暮らしている。
父康平は、小平西警察署の署長をしている。
由美子が警察官を目指したのはこの父の影響が強かった。
忙しくて家に滅多に居なかった父の、其の後ろ姿を見て育った。
だからお巡りさんが好きなのか、其れは彼女にも分からない。
それと何不自由しない家庭に育ち、母は物心着いた頃には警察を辞めていて、優しく一人娘の由美子を育ててくれたのに、其れでも言い知れぬ不安を感じる事が時々あって、そんな時お腹が痛くなり、どうしても病院に足を向けたくなる。

医師と話をするだけでも其の不安が遠のいていた。
それって、何処から来るのだろうな。
そんな雑念である。
もう少しで報告書が書き上がる、スマホをのぞいたら十時にもう少し。
報告書は書くの苦手でいつも時間がかかってしまうなぁ〜、事件を知らせるアナウンスが流れて来たのはそう思った其の時だった。

途端、由美子はバックを袈裟懸けにかけ、アナウンスを聞きながら捜査員室を飛び出していく、

それは誰よりもいつも早いのであった。

 

 

 

 

 

 

遠い夕焼け 9

ん、あ、由美子は声を上げた。

「先輩、大丈夫ですかぁ〜?起きて下さいよう〜。」

本山の声に目が覚めた。

夢を見たんだな、と、そう分かった。

「おい、本山、もう少し寝かしてやれよ。」と後部座席から気だるそうに迫田が声をかける。

「だって、苦しそうで〜。」

と本山が言うと、いつの間にか起きて座っていた迫田は

「お前は分からんだろうがな、刑事ってぇのは見かけより疲れてるもんだ。片品だってもしかしたら今日休み欲しかったんかも知んねぇぞ。」

運転している本山が目を前方を見据えながら頷いている。

「迫田さん、心配かけました。すみません。」

、しかし、何だって皆、休暇取りたいの分かるんだ?

とてもバツが悪い。

車は高速を降りていた。現場はもうそう遠くでは無い。

   だが、何て言う夢を見てしまったのだろう、と由美子は思った。

今迄の夢では無い。続きだ。

樹枝が幾らか身体も大きくなって季節は夏。

あの雰囲気は小学校の夏休みなのだろう。

親指が出ていたあのズックはあの時のに違い無い。

なら、樹枝は小学生になって初めての夏休みなのだろうか。

そうだとしたらきつくなったあのズックを、かなり我慢した事になる。

胸が苦しくなる位我慢してやっと透子に切り出したのにあの仕打ちは怒りに任せ、樹枝が死んでも

構わない、そんな感じだった。

あれは事件だ。

あれから彼女は死んでしまったのだろうか。警察が動いたのは間違い無いのだが。

そしてあの警察官の中に由美子は思わぬ人の声を聞いた気がする。

それは若い声だが確かに伊藤巡査の後ろから聞こえた声は我が父の物にに違い無い。

雅子の父と由美子の父は茨城県の源清田東警察署時代に捜査課で同じ班だったと聞いている。だから伊藤のおじ様と今でも付き合いが在るのだ。

とすればあれは茨城県での事なのか。

あの状態なら透子は幼児虐待殺人未遂と、幼児遺棄現行犯として逮捕されただろう。もし、この夢が現実に起きた事なら記録を辿れば判明は可能だ。

だが、其れが現実であるのか単なる夢であるのか、どうして樹枝の夢を見るのか。それも続き迄有って。

考えれば考える程其れが解せ無かった。

 

               

                           白骨遺体

 

    現場は真壁村の八世帯の集落の裏山で起きた。

高尾山の三分の一位の山では有るのだが、豊かな木々が枝を伸ばしおり、目に新緑が染みる。

住人所有の山々が幾つか連なるとても長閑な所だ。

                                  10に続く

 

 

遠い夕焼け 8

「何やってんだよ!行くのか、行かないのか!」

と語気が荒くなって来ている。これ以上は待てない。思い切って切り出した。

「あのね、母ちゃん、ズックに穴が空いててね、新しいの買って欲しいの。」

心臓が口から出ちゃうんでは無いかと思う気持ちだった。

「なに!」と其れを聞くが早く透子は振り返った。

しまった!と樹枝は思ったがその時にはもう遅かった。

透子は長い箒を掴むと樹枝の襟首を掴んだ。

もう身動きが出来ない。「お前はウチに金無いの知っててそんな事言うのか!」

と怒鳴るが早く、箒の柄の方で樹枝の背中を凄い力で叩きはじめた。

瞬時に身体を丸めて防御したのだが益々の力で何度も打ち叩く。

こうなるともう動けないし透子の其れは勢いを増して止まらなく、いつもとまるっきり違っている。凄く痛い!伊藤のお巡りさん、助けて!泣きながら胸の内で叫ぶ。しかし伊藤巡査はもう交番には居ない。移動したのだ。

その代わりの若い巡査が時折立ち寄っては居たが今来る筈が無い。

樹枝の意識が薄れ始めていた。だが今日の透子の怒りは何時もより怖い!彼女は敏感に感じていて恐ろしい。

「なんて事言うんだお前は!ここまで育ててやったのに!」殊更大きな声で怒鳴った。

親である筈の透子の本性が出た都合の良い思いようである。

箒を畳に投げ捨てた。だが更に乱暴は続き、足で蹴り、拳で頭を殴り、やはり其れは何時にも増して執拗だった。樹枝も大声を上げ泣き叫んだ。

どの位殴られたのかもう分からない。

言わなければ良かった。靴なんて要らない!私が悪い!私が悪い!で、でも誰か助けて!と何回も心で叫んだ。其れは声に出てしまったかも知れない。

その時、「お前なんかもう要らない!」と殺意とも取れる言葉を叫んだ途端、樹枝の小さな身体を思いっきり蹴っ飛ばした。

彼女は浮いて転がり、部屋の隅の茶箪笥に勢いよく後頭部をぶつけた。酷い痛みが走り、そこから樹枝の意識がぷっつりと無くなった。

どの位の時間が経過したのだろう。見えては居ないのだが、大きな身体付きの男の人が何人も蠢いて居る感じがした。、「おい!生きてるぞ!救急車を呼べ!」

その声で樹枝の意識がぼんやりと戻った。

伊藤のお巡りさんの声?そう思い少し目を開けた。やっぱり伊藤のお巡りさんだ。そう思っても声が出ない。だが嬉しさが広がった。

樹枝の狭い視界には其のぶつかり合う大人達の大きな肩の隙間から遠くの空がぼんやり見えた。

伊藤のお巡りさんが助けてくれる。そう思ってその肩越しに眺めると、

そこにはぽっかりと穴が空いてとても紅くて鮮やかな空が見える。

とてもこの世のものでは無いと思う位遠くの美しい夕焼けだ。、だが其れは本の一瞬で視界から消えていった。「樹枝ちゃん、しっかりしろ!おいまだか!救急車・・・・」その声の途中でまた樹枝の意識は途絶えたのだった。

              9に続く

 

遠い夕焼け 7

関東の何処かの県、あの訛りは茨城県とか栃木県辺りだろう。

しかも今では無く、かなり前の話だと思うが樹枝に訛りが無いのは何故だろう。枯れた利根川水系の街。うーん。はて?

そう言えば雅子言ってたな。「それって、由美子の過去世なんじゃないの?」

伊藤雅子(いとうまさこ。二十八歳。小平東警察署市民安全課配属。巡査部長。)同署に由美子の父、片品忠雄(かたしなただお。五十八歳。)が署長をしている。

雅子とは警察学校で出会い、話を交わすうち長年の友であったように急激に仲良くなって今では親友の間柄になった。後で分かった事だが父の同僚であった伊藤泰三(元捜査員)の長女であることも不思議と言えば不思議なのである。

けど、そうなのかな?そうかも知れないな、もしかしたら。

とそう一瞬思って大きく否定の頭を振った。

由美子は現実の犯罪を捜査している刑事である。

日頃起きる事は人間の心が引き起こす。

そんな荒唐無稽な事は普段考えてもみない事、それなのに刑事にあるまじき事を考えてしまった。、と、自分が堪らなく嫌になった。

もう、雅子ったら〜。と

ベッドの上に起き上がってはみたものの、その身体はどっしりと疲れていた。

最近大きな事件も無く落ち着いているな。溜まっている有休取ったって罰当たらないよな。でもこんな時事件が起きたりして、なんてそう思いスマホに手を伸ばした瞬間着信音が鳴り響いた。

班長に違いない!罰が当たったのか!

「由美子!金山の裏手の山中から白骨死体が出た!急いで用意しろ、近くの本山が車で拾うから高速道路を使って急いで来い。」

うんもすんも無い、紛れもなく班長の命令だ。

班長、殺しですか?」

「まだ分からん、白骨だと言ったろ!

鑑識の連中も今向かったところだ。由美子、残念だが休暇は日延べだな。」

その言葉に心臓が止まるかと由美子は思った。

「はい、わかりました!」

そう答えるのが限界だった。

小杉班長の感の良さが疑問なのは置いておいて、由美子は急いで用意を済ませ

本山を待った。本山は三鷹市に住んでいる。

井口という所にアパートを借りていて、急げば由美子の家まで二十分で着く。食事など摂ってっては居られない。

恐らく現場に着く頃には調べは大分進んでいて、トンボ返しに署へとなるとも限らない。

事件は時間を考慮して起こってはくれないものだ。

由美子がブサ猫の三郎が纏わりついて来るのを手で追い払いながら右往左往して準備していても母の洋子(ようこ。五十五歳。)は気にも止めない。

警察官の妻となり母となって自然に身に付いた事だ。

平気で忠雄の朝ご飯の用意をしている。

其れを横目で見ながら由美子は家を出た。

動き易いグレーのバンツスーツに黒のスニーカーを履き、バックは袈裟懸けにした。

いざと云う時刑事として両手が使えるからだ。

少し気が強そうな美形の顔立ちの由美子のヘアースタイルは短めのボブにしている。髪の乱れを気にしては居られない事を考慮しての事だ。階級は巡査部長だがそこには拘りは全く無い。

5月の空気は心地好く、外へ出てみると少し気分がスキッてした気がする。

新緑も目に鮮やかである。

だが、心はもう既に現場に飛んでいた。

本山の車が由美子を見つけて停車した。

「先輩、助手席に乗って下さいと半開きにしたドアーから本山が顔を出して声をかけた。

「何故?」と聞くと後部座席を指さして「これですから〜。」と言う。

見るとそこに中年の(三十四歳)の捜査員、迫田が鼾をかいて寝ていた。

助手席のドアーを開けると物凄い酒の臭いが襲って来た。

本山は話し出した。

「迫田さん、三鷹の飲み屋で朝まで飲んでたらしいんですよ〜。

僕車出そうとしたらぐでんぐでんになって来て、おい、俺も乗せてけ、って、乗るが早いか寝ちゃったんですう〜。」

本山は新任の捜査官でこの迫田と組んでいる。

迫田さんらしいな、と由美子は思った。

彼が酒にのめり込むには理由が有った。

迫田には子供は居ない。夫婦二人暮らしであったのだがこの三月其の奥さんが急な病気で日を経ず亡くなってしまったのである。

迫田はその時捜査に出ていて病院に駆けつけた時に対面したのは既に霊安室であった。

それから荒れて酒にその思いを癒すようになっていた。

だが、捜査員としての力量は奥さんを亡くしてからもその右に出る者はなかった。

それでも、やはり最愛の人を亡くした寂しさは想像して余り有り、その酒を咎める者は誰も居ないのである。

「迫田さん、大丈夫ですか?」

と声をかけると

「うるさい、現場に着く頃には酒は抜ける!」

と一喝されてしまった。

調布のインターから東名高速に乗った。

単調な乗り心地となって暫くした時、由美子は反対車線に黄色のジブリカラーの雅子の軽車両を見たように思った。

しかし高速道路である。振り返って見たもののあっという間にその車は見えなくなって、違ったんだな、と思う。思えば雅子は小平東署の捜査員。ましてや市民安全課の捜査員である。、この時間帯に高速道路を走っている筈が無かった。後で雅子にメールでも入れておこう。と考えていたら急に深い眠気を感じて由美子は目を開けている事も出来なくなってそして意識が遠くなった。

   

 

 

  そこは夏の児童公園の様だ。

樹枝は古びたブランコを漕いで居る。跳ね上げた足元を見ると、親指が桃色のズックから出ている。

前から歩くのに痛かった。

靴屋の前を通る度に新しいズックに目が行って欲しくて堪らなかった。

由美子は思った。

あの泥道を歩いた靴だろうか。子供の成長は驚く程早い。もしあの時のズックならば彼女の我慢は相当な筈だ。

それならそう思って当然だと由美子は悲しくなった。

樹枝は其れをずっと言えずに居たのだろうか。

あの透子になら考えられる事だった。

ふと見ると透子は外へ出てホースで朝顔に水をかけ始めていた。その顔は得意満面であった。

近所の人達にこんなにいっぱい朝顔を咲かせたよ。生き生きとね。そんな気持ちなのである。

花を愛でる気持ちでは無い。外の目を気にする虚勢であった。

終わると鼻歌を歌いながら家の中に消えた。

樹枝は今なら靴を買ってと言える気がしていた。だってとても機嫌がいいもの。

そう思ってしまったのだ。

時間ももう昼を過ぎようとしていた。どうせコロッケを買いに肉屋に行かされるだろうと、その機会をきっかけに言おうと、後を追うように彼女は家に戻った。

「昼だって言うのにいつまで遊んでんだよ!サッサとコロッケ買って来な!」

思った通りだ。

「うん、」と言いながら靴の話しを言い出す時を待っていたのである。

                     8に続く

 

 

 

 

 

遠い夕焼け 6

伊藤巡査は大祐と同じ位の歳の警察官で、たまに巡回する事は以前にも在ったがこう頻繁には最近の事で、しかも透子とでは無く樹枝と暫く話をして帰って行くのだ。

何処か大祐に似たこの巡査の優しさがいつの間にか彼女は大好きになっていた。

彼女は全く分かって無かった事だがその頃樹枝の周辺で確かに何かが蠢いていたので在る。

   「はい、今度は風呂敷で包んだからおんぶすっぺ。」

と米の入った風呂敷包みが時雄の手で背中で袈裟懸けに付けられその先が胸の前でしっかり縛られた。これで今度は落とす心配が無くなった。

今度も「滑らないよう気ーつけてなぁ。」

と時雄に送られ店を出た。

大きな安堵感が彼女を包んでいる。

やっと家に帰れる。子供らしくそう思って空を見上げた。

さっきよりも雪の雲が重く垂れ込めている。

そうだ!土手の道が滑るので気を付けて歩いたから遅くなったと言えばいいや。

透子に実に子供らし言い訳を思いついた。名案だと彼女はニコニコしている。

同時にふっと思った。

さっき米屋のおじさん、後で父ちゃんと話しするって言ってたな。

このまま何も話さないで済む筈無いよな。当たり前だよな。とそう感じて居るのだが、そこには、急 少し怖さも感じてたのは本当の事だ。

凍てつくような寒さを忘れていた。寒い、急いで帰ろう!

樹枝が家に帰って間もなくやはりまた雪となり、其れは粉雪となって吹き出した風に追われ、次第に凄い吹雪に変わりそれから一晩中降り続いた。

其れが嘘のように止んで、晴れた翌朝には平地で三十センチを超える積雪を見た。

そのおかげであの泥道に落とした汚れた米を何日か隠してくれた訳で、雪が溶けたら直ぐ雀や野鳥が全て掃除をする。

樹枝の小さな胸を一杯痛めたあの辛い事実は透子に発覚する事無く済んだのである。

                        

      由美子はそこで目を覚ました。

警察学校に入学して暫くした頃から時折見るようになっていた。

頬っぺたを触るとやはり涙で濡れている。

何時もそうだ。

悲しくて堪らない。

長い夢の様にも思えるけどそうでも無いのかも知れない。

あの寒さ、つま先がジンジンと冷えてそしてあの痛みとつらさ。

何回見ても臨場感が有った。

これまで関わって来た案件にはこんな子供は居なかったし、こんな話しを子供の頃から今までに誰からも聞いた覚えも無いしな。

それなのに何故繰り返し見るのだろう。

                                                     

                        続く

          

 

 

二つの親

                                      坂木田美野沐

 

  

                              虐め

 

世間は無常に陥る事は多々有る。
大人では其れも熾烈極めるが
其れは子供の世界でも同じであり、時によっては大人の世界よりも辛辣である。
今目の前にいるこの子供に私はどうしたら生きる勇気を引き出し、希望を持って学校生活を送る事をさせてあげれるのかともがいていた。
彼女に言葉に出せない苦悩が今おそって来ていたのである。
純也君は泣かずに堪えている。勿論強がりである事は分かっている。
「純也君、辛かったら我慢する事ないよ、誰も居てへんし、先生の前では我慢しなくてええ。」そう言ってあげるのが精一杯だった。みるみるうちに涙が溢れ、いきなり純也は由美子にすがって声を上げて泣いた。、父ちゃんは人なんて殺してない、泣きじゃくるその声は言葉としてききづらいがそう繰り返している。相当な我慢に違いなかったのだろう。由美子の心も泣き震えていた。
肩が震えている。由美子は母親の様に純也の肩を抱いているしかなかった。
何故、虐めを受けるのか、純也が言ったことに尽きる。
純也の父は愛人と呼ばれる女の帰宅を待ち伏せ刺殺した罪で服役をしている。
一時、冤罪ではないかとの噂が立ち、新聞各社も取り上げたのだが、現場にその父親の指紋がついた凶器が放置されていて、返り血を浴びた彼の上着が発見され、その血が被害者の物と一致した為其れが動かぬ証拠となり、本人の自白無しに起訴され裁判で刑が確定した。身がってな別れ話の縺れからの犯罪として実刑判決に至ったのである。
事件は本人が、殺されたのは愛人ではなく、なんの関係もない、殺してないと上告はしたのだか却下されている。由美子は少し事件を調べてみたが本人は人殺しをするような性格では無かった。確証は無いのだ。だが何処かで冤罪であると思っていたのである。だが子供の世界は辛辣で大人の噂話を信用する。純也に対しての虐めがエスカートしたのは其の裁判が結審した頃からであった。
今日も上履きと体操着が無くなり、其れを知らないかと隣の席の児童に聞いたところ、日頃から強固にいじめているグループから殴る蹴るの乱暴を受けていた。
いかに我慢強い子供であっても、辛辣に父親を罵るいじめっ子の精神的に追い詰める言葉や乱暴に耐えるのは本当にきつかったろう。心底可哀想だと由美子は感じていた。
だが、その二人の様子を教室の後側のドアー越しにそのグループの一人が様子を見ていたのを由美子は終ぞ気づかなかった。
宥めて純也をそのまま白金駅の前で別れ家に返したのである。
帰宅してからも由美子は自分を責めた。教師としての自分をである。
都内の私立高で教鞭をとる夫、高雄が帰宅して、食事をしていても心は晴れないでいた。高雄はその様子に何があったののか瞬時に汲み取って言った。
「あの児童の事か?」由美子は驚いて顔を上げた。見透かされていた事が恥ずかしい。
「また、だったんだな。」と高雄がポツンと言うと、滲んだ涙を指で拭きながらうなづいた。
「父親が犯罪者、だからな。様子わかるよ。」高雄は由美子を見つめて尚も続けた。
「抜本的な解決って無いからな。大事にならならいよう護ってやるしか無いのが現実だな。」その通りだった。子どもを説得してもその親達も同じ、いや、それ以上に生田の家を蔑視していて増して2年生のまだ子どもは嫌悪して追い出そうとするのが正しいと思ってしまうようである。
抜本的な解決方法?そんなもの有るのなら知りたい、そう思っていたら由美子の頭を荒唐無稽な思いが湧いた。
「あ、あのね〜。」高雄は秋刀魚を口に運びながら声を出さずにうなづいた。
「純也君、うちの子に出来ないかしら。」
高雄は食べてる口から驚いて秋刀魚を吹き出した。
「ど、とう、どうしたらそないなるん!」と大きな声を出した。
どうした?大阪弁になってる。由美子はおかしかった。
だが由美子の目はその思いとは裏腹に輝いていた。
「だって、そないすればお母さんの苦しみも減るし、純也君だって、ここなら転校するしか無くなるやん。其れに…。」
くぐもった由美子のその先の言葉は分かるような気がした。
「由美に子が出来無い事か?」
その言葉に即座にうなづいた。
「純也君、ほんま良い子で。」
「僕に反対する気持ちは無いよ、でもアカンやろ、人様の子や。」と言う。
「お母さんに出入り自由にして貰うねん、うちの子にするだけ、助けてやるだけやねん。ね、どないやろ?」
由美子の気持ちは良く高雄にも理解出来た。だがそう言うほど簡単に行くものでは無い。そこいら辺は頭いい由美子のことだから分かっているのだろうと思いながらご飯のおかわりを要求した。
それを受けながら
「ウチに任したらいいねん、明日休みだからお母さんに会ってみるわ。」
茶碗を受け取りながら其れを聞いて高雄は諦めた。
言い出したら聞かない事は長年の事で知っている。上手くいったら元々だから話すくらいはいいか。
高雄も純也を知っていたから何処かで少し期待しているのかも知れなかった。
由美子の家は世田谷である。
そこから三鷹市の白金小学校迄担任教師として通っていた。
夫高雄とは奈良で知り合った。
創応大学で教師課程を取得、そのお祝いで関西に一人旅行した。その時奈良で鹿に追いかけられてる若い彼を見かけて由美子は大笑いをした。そして「手に持ってる餌を捨てたらええねん!」と大声をかけた。捨てたら鹿はピタリと止まった。彼は大きな木の下で座り込み、ゼイゼイ言ってる。
由美子はそばまで行って笑いながら言った。
「ここの鹿は餌持ってたらくれるものと思ってるから逃げたら追いかけるねん。あかんやん、持って逃げたら。」
彼は上目遣いで由美子を見ながら
「あんた誰?」と聞いてきた。
ウチ太田由美子です。笑ってごめんなさい。と返すと。
「地元の人?」と聞いてきた。
「東京の大学生よ。」と答えた。
不思議な顔して彼は更に聞いてきた。まだ息が上がっている。
「関西弁だからここか大阪辺りかと。」
由美子は大きくう懐いて答えた。その時彼のそばに座ったのである。
「元々は大阪。親いっぺんに交通事故でね。おばのところで大学行かせてもろて今年卒業。」
その時の彼の顔は彼女に同情してるのがありありと語っていた。
そしたら何故かいやになって立ちあがりながら
「ま、鹿は餌もってると追いかけるってお覚えおき!」と、やや強い言葉をかけて去ろうとした。
少し腹が立ったのは何故だろう。
早足で歩き出した。
彼はその後を同じテンポで着いてくる。
ムカついた。振り返ると
「ついてきーへんで!」と言い放つ。それでも
「お茶飲まない?」と平然と彼は誘って来た。
「お茶?そりゃ、ええなぁ〜、もち奢り?」大阪人はノリがいい。いや由美子がノリがいいのかもしれない。
腹が立つのがコロッと消えていた。
いい店あんねん〜行こ💕
彼は三島高雄と言って東京で高校の化学の新米教師だった。それからトントン拍子に付き合いが続いて結婚して7年が過ぎた。今の今まで由美子のペースに乗せられて生活をする事になったのである。
其れが高雄は寧ろ心地良いのかも知れない。
まさかほんとに純也の母親に会いに行く事は無いだろ。其れが高雄の思いであった。
だが、次の日午後から由美子は三鷹まで純也の母親、光に会いにホントに出かけたのである。白金町にあるそのアパートは小さな古びた建物で塗装の禿げた外階段を上がって2番目のドアーが純也の家である。忙しく仕事をしている光も土曜日は休みと聞いていて在宅している筈だ。
小さな呼び鈴を押すと直ぐにドアーが空いた。この間の面談の時よりも少しやつれた光がそれでも満面の笑みで出迎えてくれた。「あ、あの突然にお邪魔して…。」光はそう言う由美子の顔をニコニコしながら
「何時も純也を庇って下さり有難うございます。どうぞお入りください。」と案内した。
台所を通り六畳間の部屋に行く。それだけの住まいである。だが綺麗にかたづている。「あの、今日は純也君の事で少しお話があって、」なるだけ関西弁が出ないように話した。
「はい、もしかしたら昨日の事でしょうか。」「とにかく狭いですがお座り下さい先生。」とテーブルのところに座布団を差し出した。
座りながら「昨日?昨日何かあったのすか?」由美子はドキドキしてきた。学校での事もあったから、あれからまたと感が働いたのである。
「ま、お茶でも、先生、コーヒー召し上がります?」そう言われてふと台所を見るとインスタントのコーヒーもう底を突くくらいに減っている。
「あ、構わないで下さいね。」と遠慮をした。夫は刑務所、子どもと2人の生活は経済的にも大変なのは火を見るよりも明らかな事である。「あ、お母さん、そこで草餅買ってきました。美味しそうで。」と、渡すと、嬉しそうに微笑んで
「なら、日本茶入れますね。」
「いえ、その前にさっきの話し聞きたいです。」と話を急いだ。
光は台所に背を向けて由美子の横に座ると深く息を一度吸い込み話し出した。
「昨日夕方暗くなっても純也学校から帰って来なくて。帰ってみたら戻った様子無いんです。」由美子は驚いた。
「え、なんやて!昨日は私と一緒に駅前迄一緒に帰った筈なんやけど。」
と言うと
「純也から昨夜聞きました。だから私探しに出たんです。もう暗くなって、何か気になって。先生、」
「先生は白金稲荷ご存知ですか?」
よく知っていた。小さな稲荷神社で後ろがこんもりとした林になっている。
「こそから呻き声聞こえて来て私飛んで行ったんです。やはり純也でした。」
神社の社に寄りかかって丸くなって呻いてました。びっくりして私おぶって赤村医院に飛び込んだんです。ほうぼう殴られ蹴られしたみたいで少し意識無くなっていて。
そこまで聞いて、事の顛末が理解出来た。二人の話しを誰かが聞いていて報復を受けた。そう直感した。、何と卑怯な、やった子供の顔は想像できた。
「そ、それで純也君は?」
「病院です。今日午後からも一度検査をして何でも無ければ先生が夜送って来てくれるんです。あの辺はクラスの子も多いので私はやたら出入りしない方が、」
そこで光は涙ぐんだ。「夫があんな事であの子に辛い思いをさせて、私
…。」
「勘弁やお母さん、私の配慮足らんかったん。すみません。ここまで送れば良かったんや、あほや私…。」
光はそれを見て驚いて首を振った。
「実はその事でお話が、純也君いない時の方が返ってええから話します。失礼な事かも知らへん。、先に謝っておきます。」そう言う由美子を光は不安そうな顔をして見つめている。
それでも「話って何でしょうか。」と言う。
「実は、私たち夫婦に子ども居ないんです。」余りの方向の話に光は訳が分からない。「夫と話したんです。純也君を養子に迎えられないものかと。」光の顔は明らかに動揺している。
「な、何とおっしゃいました?」やっとのことで聞き直してみた。
「純也くんを私達の子供として頂きたいんです。」
「なんで、なんでなんですか?」
「お母さんにとって淳也くんは宝物。其れは分かってるんです。でも

由美子は自分の気持ちを正直に順を追って話した。
形を養子にしたら純也君は世田谷に転校する事。そこでお父さんとの話が切れて虐めに会う事が無くなること。自分達に子供が望めなくて本心養子に迎えたいこと。光さんとの絆は途切れない事。そして光さん自信が今より身体も気持ちも楽になる事。
そこで迄聞いても光は顔を挙げなかった。母親である以上其れは理解の範疇であった。
「でもこの事は容易では無いこと知ってます。ご返事は急ぎません。だけど私達が子供としてお預かりする事はもしかしたら純也くんの命を大切にする、気持ちも幾らか軽くなる事に繋がるのではないのかと思うんです。昨日の事みたいな事防ぐためにも。あくまでも純也くんのお母さんは光さんです。いつでも会えるんです。」そこまで口に出して、私はもしかしたらひかりさんから宝を奪おうとしてるのでは無いか、都合の良い事並び立てて、そう思い当たった
「お母さん、そなウチ帰ります。決してこの話強制でもなくて、提案として頭に入れて置いてください。ほんとにお母さんの心に土足で入るような真似をしてすみません。」ふと見ると首を下げたままその言葉に首を振っている。いえいえ、という意味にも
なんて事を言うの、とそんな気持ちで振って居るのとどちらかは分からなかった。
とうとうお茶を入れることなく光はドアーを閉めた。
私はなんて酷いことを光さんに言ってしまったのだろう。ドアーを見つめてそう反省に至ったのである。でももう矢は放たれてしまった。なるようにしかならへん。そう気持ちを切り替えて家路を急いだ。もう白金駅の近近くまで来ていた。
定期を、たそうとしたら
「先生、待って下さい!」と光の声がした。「先生、純也を、純也をお預けします!」そう言って泣き崩れてしまった。
ここでは人の往来があり過ぎる。駅の側の小さな喫茶店に光を抱えながら入り席を持った。
「先生のお話とても嬉しかったです。親として子どもを手放すのはとても辛いですが、私には護ってあげれません。ただあの子は主人の子でも有ります。黙って先生に預ける事は出来ませんので話しをしなければなりません。それまでどうぞ学校での事宜しくお願いします。」
頭を下げ、涙しながらそう話す光を見て
私は純也くんと、このお母さんも護って行かなければ行けないんだと、そう思うと、由美子は自分が言い始めた事なのに身体が震えるのを覚えていたのである。
次の日純也は学校を休んだ。殴る蹴るをしたであろう子どもは何事も無かったように一日を過ごして帰って行った。その翌日から純也は登校したが、休み時間も由美子は教室にいて監視の目を光らせている。其れにしても怪我が大事に至らなくて良かったと思う。淳也くんは勿論だが暴行を働いた子も今は当然な事をしただけと思って居てもいずれ大人になる。自分のした事を全て理解していく。其の汚点にならなくて良かったと心から思うのである。
それから何事もなく1週間が過ぎた。

 

 

遠い夕焼け 5

彼女の顔から瞬時に血の気が引き、同時に胸が高鳴り、どっと涙が溢れ出た。

しゃがみこんで必死に米をかき集めてみた。

だが米はどんどん泥化し、どうして良いのか皆目分から無くなってしまった。

既に落とした袋は破けているし、米を持って帰って洗って使う事も出来ない。

それに、もし持って帰ったら透子の執拗な叱責は絶対に避けようも無いのだ。

泥の冷たさも足の指の痛みも感じ無い程樹枝は固まってしまい、

どうしよう!

どうしたらいい!

そう頭の中で叫んだ。

でも事態は変わらない。

身体を丸くして泣いた。

誰かに助けて貰いたい!

其れは彼女の本音だった。

だが誰も通る事は無い。

その事を漸く悟ると、彼女はスクッと立ち上がった。

透子の怖い顔も、父ちゃんの顔も、そして、やっちゃん、のんのんの顔も見える気がしている。

実際残された時間は余り無い。

彼女の腹が座った。

お米屋さんに戻ろう!涙を拭きながら最も辛い選択をしたのである。

そして今来た道を歩き始めた。

皆にあったかなご飯を食べさせたい。その必死な思いだけだった。

その様な所が樹枝の芯の強さと言えるのだろう。

だが悔しい、米を落とした自分が憎たらしい。

鼻水を啜り、そう思いながら米屋への道を急いだ。

、自分ならこんな時、同じようにそう出来るのだろうか?甚だ怪しいものだ。と、由美子はこの夢を見る度そう思う。

  そして再度米屋の前に彼女は立った。

心は不安で張り裂けそうだ。

店の中には客は居ない。

兄ちゃんだけが涙の奥にゆらゆらと滲んで見えた。

今はこの人の笑顔だけが頼りである。

其の時雄は、あれーっと、彼女を見た途端全てを悟ったようで、転がるようにガラス戸を開け飛び出して来た。

その汚れた小さな手を取るとその余りの汚れと冷たさに驚いて、彼は急いで彼女を抱き上げると、父さん!父さん!と叫びながら店の中に飛び込んだのである。

時雄は不憫で堪らなかった。

そして何故、米を持たせた時にもっと注意出来なかったのか、と自分を責めた。そんな気持ちを辛抱して涙を堪えるしか彼には無かった。

貞時は「米、落としちゃったんだね。」と声をかけながら店の奥に置いてある椅子をストーブの傍に置くと、時雄から彼女を受け取りそこに座らせた。

我慢していた彼女の気持ちがその瞬間に堰を切った水の流れのように押し寄せて来て、「母ちゃんに怒られる!母ちゃんに怒られる!」と泣き叫び出した。

それは容易に止める事は出来ずに貞時は慰めて落ち着いて来るのを待った。

そして「もう泣くな、きっこちゃん。それよりな、めんこい顔と手を綺麗にすっぺな。」

と、机の上に洗面器を置くとストーブの上のやかんから熱い湯を入れ、水で適当な温度に薄め、タオルを浸して絞った。

それで泣きじゃくる樹枝の顔と手を労る様に拭いた。

其の温かさに彼女はやっと落ち着きを見せて来た。貞時は言った。

「お米な、今あんちゃんが精米すっから安心すっぺな。落とした米の事はきっこちゃんの父ちゃんと相談すっから心配ねえ。だから。」

と言いながら彼女の頭を撫でて少し間を置くと、「母ちゃんには黙ってるんだよ。約束出来っぺか。」と聞いてみた。

樹枝はそれを聞くとほっとして素直に頷けたのだ。

貞時はそれに安心したように顔を崩して見せた。、

そこには彼女を汚れたまま家に返せば母親から折檻されるとの彼の思いが在ったのかは分から無い事だが、その顔には深いシワがよって、うっすら思わずの涙が滲んでいたのは明らかである。

 

透子のその辺りの事を大祐が話していたかは定かでは無いのだが、彼女に対しての横暴は大祐が仕事で留守にしている時に限られていたのは事実で有った。

もし話していたとすれば、大祐がその事をどう把握出来たのであろう。

可愛い娘の危機に対しての父親の感が働いたと考えられなくも無い。

だが、その頃から樹枝の周りが落ち着かなくなっていたのは確かな事で、街の交番から伊藤巡査(伊藤泰三。いとうたいぞう。三十三歳。)が古田家を訪問する事が増えていた。

                 6に続く