遠い夕焼け 5

彼女の顔から瞬時に血の気が引き、同時に胸が高鳴り、どっと涙が溢れ出た。

しゃがみこんで必死に米をかき集めてみた。

だが米はどんどん泥化し、どうして良いのか皆目分から無くなってしまった。

既に落とした袋は破けているし、米を持って帰って洗って使う事も出来ない。

それに、もし持って帰ったら透子の執拗な叱責は絶対に避けようも無いのだ。

泥の冷たさも足の指の痛みも感じ無い程樹枝は固まってしまい、

どうしよう!

どうしたらいい!

そう頭の中で叫んだ。

でも事態は変わらない。

身体を丸くして泣いた。

誰かに助けて貰いたい!

其れは彼女の本音だった。

だが誰も通る事は無い。

その事を漸く悟ると、彼女はスクッと立ち上がった。

透子の怖い顔も、父ちゃんの顔も、そして、やっちゃん、のんのんの顔も見える気がしている。

実際残された時間は余り無い。

彼女の腹が座った。

お米屋さんに戻ろう!涙を拭きながら最も辛い選択をしたのである。

そして今来た道を歩き始めた。

皆にあったかなご飯を食べさせたい。その必死な思いだけだった。

その様な所が樹枝の芯の強さと言えるのだろう。

だが悔しい、米を落とした自分が憎たらしい。

鼻水を啜り、そう思いながら米屋への道を急いだ。

、自分ならこんな時、同じようにそう出来るのだろうか?甚だ怪しいものだ。と、由美子はこの夢を見る度そう思う。

  そして再度米屋の前に彼女は立った。

心は不安で張り裂けそうだ。

店の中には客は居ない。

兄ちゃんだけが涙の奥にゆらゆらと滲んで見えた。

今はこの人の笑顔だけが頼りである。

其の時雄は、あれーっと、彼女を見た途端全てを悟ったようで、転がるようにガラス戸を開け飛び出して来た。

その汚れた小さな手を取るとその余りの汚れと冷たさに驚いて、彼は急いで彼女を抱き上げると、父さん!父さん!と叫びながら店の中に飛び込んだのである。

時雄は不憫で堪らなかった。

そして何故、米を持たせた時にもっと注意出来なかったのか、と自分を責めた。そんな気持ちを辛抱して涙を堪えるしか彼には無かった。

貞時は「米、落としちゃったんだね。」と声をかけながら店の奥に置いてある椅子をストーブの傍に置くと、時雄から彼女を受け取りそこに座らせた。

我慢していた彼女の気持ちがその瞬間に堰を切った水の流れのように押し寄せて来て、「母ちゃんに怒られる!母ちゃんに怒られる!」と泣き叫び出した。

それは容易に止める事は出来ずに貞時は慰めて落ち着いて来るのを待った。

そして「もう泣くな、きっこちゃん。それよりな、めんこい顔と手を綺麗にすっぺな。」

と、机の上に洗面器を置くとストーブの上のやかんから熱い湯を入れ、水で適当な温度に薄め、タオルを浸して絞った。

それで泣きじゃくる樹枝の顔と手を労る様に拭いた。

其の温かさに彼女はやっと落ち着きを見せて来た。貞時は言った。

「お米な、今あんちゃんが精米すっから安心すっぺな。落とした米の事はきっこちゃんの父ちゃんと相談すっから心配ねえ。だから。」

と言いながら彼女の頭を撫でて少し間を置くと、「母ちゃんには黙ってるんだよ。約束出来っぺか。」と聞いてみた。

樹枝はそれを聞くとほっとして素直に頷けたのだ。

貞時はそれに安心したように顔を崩して見せた。、

そこには彼女を汚れたまま家に返せば母親から折檻されるとの彼の思いが在ったのかは分から無い事だが、その顔には深いシワがよって、うっすら思わずの涙が滲んでいたのは明らかである。

 

透子のその辺りの事を大祐が話していたかは定かでは無いのだが、彼女に対しての横暴は大祐が仕事で留守にしている時に限られていたのは事実で有った。

もし話していたとすれば、大祐がその事をどう把握出来たのであろう。

可愛い娘の危機に対しての父親の感が働いたと考えられなくも無い。

だが、その頃から樹枝の周りが落ち着かなくなっていたのは確かな事で、街の交番から伊藤巡査(伊藤泰三。いとうたいぞう。三十三歳。)が古田家を訪問する事が増えていた。

                 6に続く