遠い夕焼け 4

その時、店主の息子である兄ちゃん事、時雄(ときお)が気が付いて飛び出して来てくれた。

彼女の泥だらけのズックに驚き声をかけた。

「きっこちゃん、どうしたこんな日に。」

「寒かったべ?、あ、お米かな。?」

その問いかけにビクッとしたが咄嗟に頷けたのである。

「五キロかな?、ん、二キロでいかっぺか?」

其れにも首を縦に振れたのである。

時雄の上手い誘導だ。

彼に手を引かれ店に入った。ストーブのホアっとした灯油の匂いが身体全体を包んだ。

その時彼女の心がポッンと呟いた。

あったかい。。。

と、。

時雄は余りに冷たい樹枝の手に少し手を放し其れをまた握り返した。

彼の其の時の気持ちは想像するに大人には容易であるが彼女には当然ながら全く気が付いては無い事だった。

其の時雄と店主の貞時(さだとき)は大祐と気が合うらしい。

だから連れ立って来る樹枝の事もいつも可愛がってくれていた。

大祐がそうして来るのは、いずれツケで此処にも買い物に出されるだろう不憫な娘の事を二人に願う為も確かに有ったと思う。

その気持ちは充分に伝わっていて、自分を気にかけてくれている二人だ。

今日、その大祐は仕事で居ない。

彼女は初めて一人で米屋へツケの買い物に出されたのである。

その時、大きな木の升から米を精米機に入れるザァーと云う音がしたから樹枝の心は焦り、

(今言わなくちゃ駄目だ!いけない!)思い切り声を出した。

「あ、あのね、お金、ツケてって言われたの。」

勇気を出して頑張って言ったのに小さな声しか出せ無かった。、悔しくて堪らない。

それでも時雄はちゃんと聞いていた。そして奥に居る貞時に精米機の音に負けないように、

「古田さん、今回ツケだって!」と大声を出して伝えた。

でも其れが彼女には殊更大きく響いて恥ずかしくて身の置き所が無い程動揺してしまっている。

それでも貞時の「あいよ!」と、明るい声が返って来ると、彼女の緊張していた気持ちが一気に緩み、感極まって思わず一筋の涙が伝わり落ちた。

時雄がそれに気付か無い筈が無い。

だが知らん顔して

「きっこちゃん、お金は今度でいいって、んだけどほんとに二キロでいかっぺか、」と、聞いた。

彼女はほっとして

「うん、ありがと。」

と言った時、ニコニコしている時雄の顔が見えた。

彼女は高揚して紅く染まった子供らしい笑顔をやっと時雄に見せたのである。

精米仕立ての温かい米が厚手の袋に詰められて袋の上の紐が慣れた手付きでクルクルとよられ縛られた。

「重くてすべるから気ー付けてけーれな。」

彼女の腕には確かに二キロの米は重くて米の袋は兄ちゃんの言う通りに少しツルツルしている。

けど、これで皆がご飯食べれる。そう思うとその重さは樹枝にも何だか耐えられる気持ちがしているのだ。

ん、落とさない!、と彼女は自分に言い聞かせてその米袋をしっかり抱っこしたのである。

その時、さっき迄あんなに辛かった気持ちが嘘の様に消えていたし、それにこんな大役を果す嬉しさも手伝っていて、その足取りも少し軽くなっていた。

そして其の寒さも和らいで感じている、そんな事がとても不思議だった。

土手に上がらないと樹枝の住む県営住宅の方へは帰る事が出来ない。米屋に来るには其れが難点で有った。

しかし米屋の傍に有る舗装されて除雪された土手への階段を上がると、また雪解けの道を歩く。

其れが歩きづらいのは変わらないし、足の指先に冷たさが伝わり、あの痛みも復活して来ている。

其れに見上げると何時また雪が降って来てもおかしくない空模様である。

県営住宅に下る坂道に差し掛かる頃にはか細い彼女の腕にはやはり二キロの米は重くて、片手で手摺りを掴んで下りる事を考えた時、米をどうして持とうかと悩んでしまった。

そんな気持ちは辛さを呼んで、段々とその重さに耐える事が難しくなって来ているのだ。

それでも絶対に落とせない、と、そう思い彼女は歯を食いしばった。

其の彼女にとって貴重な米がとうとうその手から滑り落ちたのはそう考えた土手を下りる少し手前で正に其の瞬間の事だった。

                                 続く

 

 

 

 

遠い夕焼け 3

 

 

それからしても透子の行動は常軌を逸しているのは間違いの無い事だ。

樹枝がこの買い物を少し渋った時、透子から言われた事は、

「行かないのか!お前は弟や妹が腹空かして泣いてもいいんだね!」だった。

これはどうしても言う事を聞かざるを得なくすると云う脅迫文句に他ならない。

でも幸いにして彼女にはその意味では聞こえてはい無かったのだ。

母ちゃんは、やっちゃん(弟の康夫。やすお。三歳)や、のんのん(妹の紀子、のりこ。一歳。)を面倒見るのに忙しい。私はお姉ちゃんだから嫌でも行くのは当たり前なんだ。

と、ただそれだけの思いだった。

樹枝は幼くてもそのようにしっかりした処の有る姉なのだ。

だが透子にすれば其れが思う壺な訳で彼女は思うように使える都合の良い一つの道具で在ったのだと思われる。

樹枝は透子の暴力と暴言に晒されていても、その母ちゃんが怖いと思うだけでこれまで恨む事は一度も無かった。

透子の乱暴に必死に耐えながら、何か自分が悪い事をしたから怒らせてしまったと、そう思い、身体を丸くして防御し、いつもただ我慢して耐えた。

そして泣きながら痛みを堪えて母親の怒りが収まるのを只管待ったのである。

    実はこのように子供が親の愛情を疑わずに虐待を受けていてもその親を信じて耐え抜いた挙句に命を奪われてしまったり、また、育児放棄されていても親が自分を放って置く筈は無く、必ず帰って来ると信じて家の中に有る食べ物を食べながら襲い来る飢えに耐え、細々と生きて、その食べ物が底をついても外に助けを求める知恵も無く、只管待って、待って、その挙句に体力の限界が来てしまい、幼い命が、帰らぬ親への思慕を募らせる中、とうとう命の火が消えて、逝ってしまう。

そんな悲しい事件が現在、枚挙に暇が無いのが現実なのである。

其れが親としての自覚も責任感も無い、所謂、育児放棄(チャイルドネグレクト)や両親が引き起こす幼児虐待のおぞましい実態なのである。

透子の其れは、実にその合体型と言えよう。

   彼女の覚束無い足でもとうとう米屋の前に着いてしまっていた。

やはり声をかけるのは気まずくて店の中をまともに見る事も出来ないのだから、店の戸を開けて入るなんて出来そうも無くて、右を見たり、下に目をやったり、また左を見たりで、心は葛藤するばかりで焦って悲しい。胸が高鳴って止まらなかった。

                            4に続く

遠い夕焼け 夢 2

其の工事が始まるのはそれから十年も先の事となるので在る。
高いと誰でも思う坂である。
大人でも嫌だと思うのだから彼女には尚更に違いない。
だが、其れはその歩きにくい道のせいばかりでは無かった。
何も持たずに買い物をする。
それがどう言う事なのか。
その位の意味は彼女にも分かっていたし、母ちゃんが自分で行かないのは店で恥ずかしい思いをするのが嫌なのだとそう薄々分かってもいるのだ。
子供にとって優しい人間ばかりでは無い。
樹枝が以前魚屋に行った時、「また、子供をよこして!全く商売上がったりだよ!」
と大きな声であからさまに言われた事がある。大勢の客の居る所で彼女は身の置き所も無い程辛い思いをしたのだ。
ツケで買うのはその魚屋だけで無く、米屋、肉屋、八百屋、その他雑貨屋に至るまで生活に関する全ての店に及んでいて、そこに透子が出向くのは皆無なので在った。
ツケ買いに行くのは樹枝だけでは勿論無い。
父の大祐(古田大祐。ふるただいすけ。三十五歳)が家に居る時は彼が率先して買い物に出て居た。
自分が仕事中に普段樹枝が買い物に出されていると大祐は気が付いていたのだろう。

だからそれを彼は透子にキツく禁じていた。
だがその透子が他人や家族を含めて人の言う事など頑として聞く性格では無いのは大祐も承知している位にとても制御が効か無い、そんな気性の女であった。
「いいね!金は後でというんだよ!ウチには金なんて無いんだからね!ツケで払うとあうんだよ!」と、しつこくそう言ってさっきも樹枝を米屋に出したのだった。

   大祐はとても人当たりが良く、人に好かれている。また実際に実直で信用の置ける男で在った。

彼は便利屋のような仕事を生業としていた。

元々美術の才覚も持っていたから草むしりや買い物だけでは無くて頼まれて灯篭などを彫ったりして客から喜ばれていた。

その仕事の単価一つ一つはそう高くは無かったが、その人柄で紹介が絶える事が無かった。

そのようだから仕事の件数も増えてそれなりの   日銭が透子に渡っている筈で有り、金が無いと云うのが本当だとすれば、それはやはり、貯めて割り振りをして使うと云う経済の才覚が彼女には欠落していると考えるのが妥当なのであろう。

透子のそんな事情何て樹枝にまだ分かろう筈も無い事だった。

ツケで買い物をするのは大人でも気が引ける事である。

いくら母親の言いつけでも番度苦痛なのは彼女にとって当たり前の事だ。

今日は米屋かと、そう思うと一層気が重くて出す足も重くなる。それでも彼女はその思いを頭から追い払いながら歩いた。

どうしても自分がしなければいけないと観念するしか他に選択肢があるわけでも無くて、無理やりそう自分に言い聞かせるしか無い。彼女のそんな今の状況で在ったのだ。

それ程透子の行動や言動は怖かったし、うっかり口答えなどしたら透子は直ぐに怒り出して、其れがエスカレートして手で叩かれる位では済まなくなるのが常で在ったのだ。

何故自分の娘にそんな酷い事が出来るのか、其れは謎で在り、恐らく透子本人に聞いて見なければ判らない事なのだが、この時樹枝は何と云っても未だ五歳と十か月の幼児なので在る。

                        続く

 

 

 

遠い夕焼け 1

                                            美野沐(みのう)

 

第一章                    夢

少女は未就学児に見える。
何回も見ている夢ではあるが見えると云うのはきっと適当な表現では無いので在ろう。
だが、この少女は決して自分では無いと、
由美子(片品由美子。かたしなゆみこ 28歳。
青梅西警察署捜査課、小杉班配属、巡査部長。)
は承知はしていた。
それにしても毎回ワンシーンも違わないのが何とも不思議なのでは在った。
だが、今のこの状況は決して現実では無く、夢を見ている、と、そう由美子は理解して居るのだ。
何時もいっぱいの悲しさと共に寒さを感じていた。
その事から季節は2月の関東位の頃ではと思われる。
そこから推測すると自ずと関東の何処かの県なのではと大凡の見当も付くのだが
東北や北陸地方とその関東の寒さとは比較になる物では無い。それでも関東でも処に拠っては山から吹くからッ風も可成り寒いものだ。
この辺りは以前に利根川水系の河が満々の水を従えて滔々と流ていたのだが、其れも今ではすっかり稗上がりとうに枯れ果てた。
元々の農家はそこに田畑を広げて、入植者の家や県営住宅地、オフィス等も増えるに従って当たり前の様に今では幾つもの商店も軒を並べている。
土手と土手を挟むこの枯れた河の後の土地はそこそこな広さの一つの街となったので在る。そして河川の名残りの高さを持っ堤防(坂)が今もって存在しているのだ。
その坂は今では住民の便利な生活に欠かせない道となっている。
恐らく時刻は午後の二時頃なので在ると思う。
ふと、彼女の足元を見ると、そのか細い足にはタイツどころかソックスも履いて無くて、その上幾らか小さくなった桃色のズック靴に右足の親指の先が当たって先程から痛さを感じているので在る。
それにとても真冬とは思えない秋用のブラウスを着ている。
その下に下着を付けている感覚が由美子には全く無いし、その上から薄い上着を羽織ってるだけで有るのだから、この伝わり来る肌を刺す寒さはきっと彼女の其の出で立ちのせいで在るのだろうと感じている。
悴んで赤く腫れた霜焼けした手には何も持ってはいない。
凍える非常なその寒さと足の痛さに耐えて滑り易い足元を確かめながら彼女は母親である透子(古田透子)から言いつけられた米屋に向かいそっと歩を進めて居る。
買い物籠も財布も持たされては居ないこの姿こそが今の彼女に置かれた境遇を如実に物語っているのに他かなら無かった。

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その樹枝(古田樹枝)が住む県営住宅からあの高い坂に出る雪解け道の辺りは春から晩秋の時期まで子供らの格好な遊び場となる。
土手の手前に小川が流れ、春から夏の季節にはしじみや馬鹿貝や、メダカのような小さな魚が泳いで蛙などもいて、子供たちははしゃいでそれを取り大人も楽しむ事が出来た。その向こう側の元々の平地には規模の小さな鎮守の森も林も田んぼや畑も有り、カブトムシや蝉を取り、秋には秋の栗や柿に事欠か無かった。

ただやはり其の自然の傍に高いコンクリートの建物が生活の便利のため、利害の為にその数を増しつつ有るのも事実だった。今から行く米屋もそこの商店街にあり土手の向こう側に有る。

無論彼女も其の楽しみの例外では無かったが、このように使い事と他にも手伝いが在り、それにも増して透子が家に居る事を彼女に対して強要している事も手伝って遊べる時間も可成減っていた。
それが有って彼女は正直この道を嫌いに成りかけて居るのである。
住人が時をかけ、昇り降りを繰り返し何時しか坂は階段状となった。
そしてその上誰かが行き来し易いように木製の手摺りを設置していたのだ。
行政を行う県にしてみれば勿論違反では在るのだが、その県に土手を活用しながら出来るだけ平らする工事計画が進んでいて、其れを以前に県の道路整備課の課長と職員が一度確認に来ただけで手摺りを咎める事は無かったのである。

 

                                           訂正有りで続く