遠い夕焼け 夢 2

其の工事が始まるのはそれから十年も先の事となるので在る。
高いと誰でも思う坂である。
大人でも嫌だと思うのだから彼女には尚更に違いない。
だが、其れはその歩きにくい道のせいばかりでは無かった。
何も持たずに買い物をする。
それがどう言う事なのか。
その位の意味は彼女にも分かっていたし、母ちゃんが自分で行かないのは店で恥ずかしい思いをするのが嫌なのだとそう薄々分かってもいるのだ。
子供にとって優しい人間ばかりでは無い。
樹枝が以前魚屋に行った時、「また、子供をよこして!全く商売上がったりだよ!」
と大きな声であからさまに言われた事がある。大勢の客の居る所で彼女は身の置き所も無い程辛い思いをしたのだ。
ツケで買うのはその魚屋だけで無く、米屋、肉屋、八百屋、その他雑貨屋に至るまで生活に関する全ての店に及んでいて、そこに透子が出向くのは皆無なので在った。
ツケ買いに行くのは樹枝だけでは勿論無い。
父の大祐(古田大祐。ふるただいすけ。三十五歳)が家に居る時は彼が率先して買い物に出て居た。
自分が仕事中に普段樹枝が買い物に出されていると大祐は気が付いていたのだろう。

だからそれを彼は透子にキツく禁じていた。
だがその透子が他人や家族を含めて人の言う事など頑として聞く性格では無いのは大祐も承知している位にとても制御が効か無い、そんな気性の女であった。
「いいね!金は後でというんだよ!ウチには金なんて無いんだからね!ツケで払うとあうんだよ!」と、しつこくそう言ってさっきも樹枝を米屋に出したのだった。

   大祐はとても人当たりが良く、人に好かれている。また実際に実直で信用の置ける男で在った。

彼は便利屋のような仕事を生業としていた。

元々美術の才覚も持っていたから草むしりや買い物だけでは無くて頼まれて灯篭などを彫ったりして客から喜ばれていた。

その仕事の単価一つ一つはそう高くは無かったが、その人柄で紹介が絶える事が無かった。

そのようだから仕事の件数も増えてそれなりの   日銭が透子に渡っている筈で有り、金が無いと云うのが本当だとすれば、それはやはり、貯めて割り振りをして使うと云う経済の才覚が彼女には欠落していると考えるのが妥当なのであろう。

透子のそんな事情何て樹枝にまだ分かろう筈も無い事だった。

ツケで買い物をするのは大人でも気が引ける事である。

いくら母親の言いつけでも番度苦痛なのは彼女にとって当たり前の事だ。

今日は米屋かと、そう思うと一層気が重くて出す足も重くなる。それでも彼女はその思いを頭から追い払いながら歩いた。

どうしても自分がしなければいけないと観念するしか他に選択肢があるわけでも無くて、無理やりそう自分に言い聞かせるしか無い。彼女のそんな今の状況で在ったのだ。

それ程透子の行動や言動は怖かったし、うっかり口答えなどしたら透子は直ぐに怒り出して、其れがエスカレートして手で叩かれる位では済まなくなるのが常で在ったのだ。

何故自分の娘にそんな酷い事が出来るのか、其れは謎で在り、恐らく透子本人に聞いて見なければ判らない事なのだが、この時樹枝は何と云っても未だ五歳と十か月の幼児なので在る。

                        続く